オレンジ・ノスタルジア

なつかしのリボン (旧サイト公開作の再掲)

ずぶ濡れになった重いジーンズのポケットの中探り当てた鍵は、すっかり冷え切っとった。
同じく、かじかんだ手は、いまいち思い通りに動かない。
そのせいやろか。
何度やってもうまく穴に入っていかへん鍵に苛立ちを感じながら、手元を見下ろす。
そこではじめて、必死に自分が挿し込もうとしとった鍵が、バイクのそれやと気付いた。

思いっきり舌打ちをしてから、もう一度ポケットを探る。
普段の倍以上の時間を要してようやく部屋に踏み込んだ瞬間、あるはずのない気配を察知して立ち竦んだ。

「……何でおんねん」

暗がりの中に、その女はおった。
剥き出しになったフローリングの床で、それ以上は無理やっちゅうくらい小さくなって、膝小僧らへんに顔を埋めとる。

「おい」

……信じられへん。こないな窮屈な格好でよう寝られるな。
返事のかわりに耳に入った小さな寝息に、少し大袈裟に嘆息する。

「かず―――」

名前を呼んで肩に触れる寸前、何かが頭に引っかかった。
もう一度、頭を垂れて膝を抱えて眠る女の上を、何度も視線で往復する。そこで、違和感の正体に気付いた。
―――色褪せた、オレンジのリボン。
それに指を絡めてみると、ふっと笑いが漏れる。
これを見るのは、久しぶりやった。ほんで、こんな風に髪くくった和葉も。

高校卒業して、3年。いつのまにか、和葉の頭はしっぽがなくなった。
わけを聞いたら、確か「子供っぽいやん」て言われた覚えがある。そんなもんか? と思ったけど、長い髪を耳にかけて肩に流しとる和葉が少しだけ大人っぽく見えたから、
多分その通りなんやろう。

ほんで、このリボン。
もともとは、もっと明るくて、鮮やかなオレンジ。

どういういきさつでそうなったんかは憶えてない。やけど、中学のときにオレが買うてやったもんに違いなかった。
そのときは「ただの幼馴染」やったし、オレ自身、和葉のことをそのつもりで見とった。
今振り返るとその認識は間違いなんやけど、当時のオレはそんなことにまで意識が回ってへんかったから、何て言うて渡したんかも定かやない。
そんな風に自分の記憶はあやふやなのに、嬉しそうに笑った和葉の顔だけは鮮明に残っとった。

「おい、和葉。起きろって」

今度こそ肩をゆすると、かすかにしっぽを振るわせながら、ゆっくりと和葉が顔を上げる。
少し寝ぼけとるらしく、口ん中だけでもごもご何か言うとるそのほっぺたをつまんでやると、ぱちりと目を開けた。オレの姿を認識するやいなや、「何でおんの」とわずかに頬をこわばらせる。

……何でもなにも、ここオレの部屋やっちゅうねん。

とはいうても、オレより和葉の方がおる時間も長い。
大学入学とともに始めた一人暮らしは、今ではそう呼んでええのかも分からんくらい、和葉がおるのが当たり前になっとった。

「眉間に皺寄ってんで」
「当たり前やん。アタシ、怒ってんねんから」

うそつけ。
コイツは何で下手くそなくせに、こうやってうそつこうとすんのやろ。

「ほんなら何でそのリボンしてんねん」

怪訝な表情をした和葉。やけど一瞬で「あっ」ちゅう顔になった。
慌ててしっぽに手をやって、それからリボンに指を引っ掛ける。その手首を掴んで、解こうとするのを阻止した。
近づいた距離を利用して、そのまま和葉自身も腕ん中に捕らえる。

「これ、オレがやったやつやろ」

和葉の指の合間からオレの指も挿し込む。図星をさされて、和葉は困ったような悔しいような、よう分からん顔になる。それを誤魔化すためやろか。
「……平次の手ぇ、めちゃくちゃ冷たい」なんて言いながら、オレの指から逃れようとする。

「服濡れてるやん! 風邪ひくで! お湯入れてくるからちょお放して」
「怒ってるんやろ。そんなヤツのためにそんなんするなや」
「……怒ってへんよ、もう」

―――スマン。
今朝は言われへんかった謝罪を口にすると、和葉が首を振る。「慣れてるもん」と笑ったあとで、「それにな、ちょっと、わがままになっとったなーて思てん」とうつむく。

「わがまま?」
「荷物整理しとったら、これ、見つけてん。平次からもろたとき、めっちゃ嬉しかったなぁって思い出して……」

頷いたあとで、和葉はそう話し出した。「……初心にな、戻ろ思たんよ」

少し、ギクリとした。
……これはまさか、ただの幼馴染に戻ろうっちゅうことなんやろか。
オレとしたことが顔に出とったらしく、「なに変な顔しとんの」と和葉が首を傾げる。その反応で、どうやら深く考えすぎやと密かに胸を撫で下ろした。
今さら、あの頃になんて戻れない。

「アタシ最近、あれもこれも、何でしてくれへんのーって、そんなんばっかやったもん。前は、リボンいっこでめっちゃ嬉しかったのに」
「……それが普通やろ」
「せやけど、それで平次に嫌われたら元も子ないやん」

嫌われる、て。
そんなんでいちいちお前に愛想つかしとったら、そもそもこんなにずっと一緒におらんわ。
っちゅうか、嫌われるのはオレやろ。

自分のやりたいことばっか優先して和葉ほったらかして。世間でのエエ彼氏の見本なんちゅうもんは知らんけど、それにオレが当てはまらんことだけは確かやて自分でも分かる。
こないな時に、「しょうもない心配すんな」なんて言葉しか返されへんのもアカンな、て思う。
そのかわりに強く抱き締め直したら、オレの頬が首筋に触れたらしい。「つめた!」と和葉は声を上げた。

「なぁ、何でそない濡れてるんよ。今日、雨降ってへんやろ?」
「……寝屋川あたりは大雨やったんや」
「寝屋川!?」
「何で驚くねん。もうウチ帰るわーって書きなぐった手紙置いてったんお前やろ」

帰宅したらいるはずの女がいなくて、かわりにあったのは穏やかやない内容の手紙。
口では「勝手にせえや」なんて言うてみたけど、体は今しがた置いてきたばかりのバイクに向かっとった。ほんなら寝屋川の家に和葉はおらんし、雨は降っとるし、もう散々や。

「アタシのこと…連れ戻しに行ったん?」

信じられへん、みたいな言い草。
信じられへんのはオレの方や。ほとほと疲れて帰ってきたら、件の女は部屋で寝とるしな。
「あの手紙うそやったんか」とオレが言うと、すぐさま和葉は首を振る。

「あれ書いて、ホンマにウチ帰るつもりで駅行ってん。やけど財布とか荷物とか全然持ってへんのに気付いて取りに帰ったんよ。多分、そのとき入れ違いになったんやね」

財布に荷物……
そんなもんが置いてかれたままになっとったことにも気付かへんなんて。探偵失格や。

「ほんで、荷物纏めてたらリボン見つけたっちゅうわけか」

そう補足してやると和葉は「うん」と頷いて、「けど、平次いっぺん帰ってきてたんやね。全然帰ってけえへんから、アタシ、てっきりまた事件かと思っとった」と続ける。
そして、ふふっと声を漏らした。

「まさかあの手紙平次が見て、寝屋川まで行ってくれとったなんてなー。勝手にせえ、て言われるだけかと思ったのに」

……確かに言うたけど。
和葉が喉を鳴らして笑うから、「笑いすぎや」としっぽを軽く引っ張ってやる。
「もー痛いやん」なんて言いつつ、まだ笑っとるらしい。小刻みに震える感覚でそれが分かる。
和葉の腰に回しとった手を少しずらしてセーターの下に潜り込ませると、さすがに笑ってられへんらしく、悲鳴を上げた。

「何すんの! 平次の手ぇめっちゃ冷たいんやって!!」
「オレが雨に降られてどんだけ寒いか思い知れっちゅーねん」
「せやから放してってゆうてるやん! はよお風呂入った方がええよ!」
「ほな、一緒入るか?」

一瞬口を噤んだあとで、「イヤや」ときっぱり斬り捨てられた。
……もうちょっとくらい、躊躇ってもええやろ。
和葉の返事は無視して、更に進入させた手をホックにかける。軽くひねって外してやったら「平次!」って慌てとる声。
背筋に沿って指を滑らせると、和葉の体がピクリと震えた。その反応に気を良くしてうなじに吸い付いたとたん和葉が漏らした声に、オレの冷静さも少しずつ奪われていく。
風呂のために脱がすだけのつもりやったのに、いつのまにか目的が変わってそのまま押し倒した。

「……邪魔そうやな」

頭と床に挟まれたしっぽとリボンがなんや居心地悪そうやった。和葉の背中を支えて少し上半身を抱き起こしてから、淡いオレンジの端っこを引っ張って解いてやると、ふわりと黒髪が肩に落ちる。
何となくそれを指に絡ませてから、ふと、気がついた。

「初めてや」

和葉が「え?」と聞き返してくる。「……何が初めてなん」
オレと和葉がこういう関係になったのは高校を卒業してだいぶ経っとったから、こんな風にリボンを解いてやるのは初めてやった。

……何か、脱がすもん増えたみたいで結構ええな。

心ん中だけで呟いたつもりやったのに、またもや顔に出とったらしい。「何かやらしいこと考えてる」
そう言うて軽く咎めるように見上げてきた和葉に、指に巻きつけとったリボンを奪われた。その手を掴んで、床に沿わせる。

オレの手や唇が和葉に触れるたびに、ほのかに揺らめく橙色が暗がりに浮かび上がった。

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