月にさかずき

和葉父語り (旧サイト公開作の再掲)

あれは、いつのことだったのだろう。

手にしたグラスを一口呷ると、中の氷が小気味いい音をたてた。
喉を濡らしていくウイスキーを味わいながら、薄くぼやけた記憶を辿る。

握ったてのひらはとても小さくて、手を繋ぐというよりも、その大切な大切な小さな手が擦り抜けてしまわないように。離れていってしまわないようにと、必要以上に何度も握り返した。
その度にこちらを見上げてくる瞳に笑いかけてやると、なだらかな頬がふにゃりと弛む。
けれど、自分の頬はそれ以上に弛んでいたはずだ。
こうして思い出しているだけでも、いつのまにか締りのない顔になっていたのに気付いて、それを隠すようにまたグラスを傾ける。

時折吹く風は涼しいというより冷たい、という方が相応しかったが、酔いがまわって、少し火照った体にはそれがとても心地よかった。
ゆっくりと瞳を閉じて、もう一度、あの頃へと想いを馳せる。

***

「……お父ちゃん?」

後ろの襖が開いて、ぬるい空気が項に触れた。
何となく返事をしないでいると、背中にその気配が近づいてくる。

「何してんのん? こんなとこ、寒いやろ」
「酔い覚ましには丁度ええんや」
「酔い覚まして……」

ほんなら何で今も飲んでるん。

きっと、そう言いたかったのだろう。けれどそのまま、娘は口を噤んだ。
酔い覚ましがただの口実にすぎないことを、彼女は察したのだ。大人になったんだな、と思う。
もう、彼女のてのひらはあの頃のように小さくはない。

「何か用やったんか」
「え……あ、うん。平次、もう帰んねんけど……」
「そうか。気ぃつけるようにな」

顔を見せてやって欲しい、という娘の気持ちは分かっていたが、気付かないふりをする。
そんな沈黙がしばし続いたあとで、小さな溜息とともにそっと襖は閉められた。
遠くで、娘と彼が話している声がして、「ほんなら失礼します」という少し控えめな挨拶が、襖越しに届けられる。見えるはずもないのに小さく頷いて、グラスの水滴を拭った。

無二の親友の息子である彼のことが嫌いなわけではない。
むしろ幼い頃からその成長を見てきた身として、ある種家族のような情も感じているし、認めてもいる。心に芯をもった、好ましい男だとも思う。
真っ直ぐすぎるがゆえに、荒っぽさや危うさを感じることもないわけではなかったが、久しぶりに対面した彼は以前と比べてそういった青さが消え、まさに信頼に足る青年になっていた。
「この男なら……」というのは常々もっていた想いだったし、立派に成長した彼を見て、それは改めて確かなものになった。

だが。

だからこそ、なるべくなら彼の顔を見ずにおきたい時もあるのだ。
特に、こんな夜には。

「とうとう現実になってしもたな」

誰に聴かせるでもなく、ひとりごちる。
グラスについた雫がひとつ滑り落ちて、寝衣に染みをつくった。

「……お父ちゃん」

玄関先まで彼を見送ったらしい娘が、グラス片手に隣に腰を下ろす。
どうした、という意味を込めて横顔を見やると、視線に気付いた彼女が少し眉を下げた。
ちょっと、困ったような顔。
実際、複雑なのだろう。
不貞腐れた父親に、どう声をかけたらいいのか分からないのだ。

「なぁ和葉。覚えてるか」

和葉の手が今よりずっとずっと小さかった頃。
お前がおよめさんになりたい言うとったんはワシやったんやで―――

「なに? お父ちゃん」

肌寒かったのだろう。
膝を抱え込んだ拍子に薬指の指輪が、部屋から漏れる明かりを反射して瞬いた。

キレイだな、と感じるのと同時に、
その指に昔、白詰草の指輪をはめてやったこと。
そしていつのまにか、白詰草がリボンに変わっていたことを思い出して、苦く笑う。
いつかこんな日が来ることを覚悟したのは、あの日が最初だったかもしれない。

「キレイやね」

ひどく嬉しそうな声だった。
指輪を見ていたことに気付かれたのかと思ったが、そうではなかった。
ほら、と娘が指さした先は、上。
先ほどまで星ひとつ見えなかった群青色の夜空を、いつのまにやら姿を現した白銀の月が見事に丸く縁どっている。

「ホンマやな」

笑みが漏れた。
返ってきた娘の笑顔は、あの頃よりずっと大人びてキレイで。
それでいて、やはりどこか変わらない。

「―――あ」

馴染みあるメロディーが襖の奥から流れ出して、二人の声が揃った。

「平次君やろ。はよ出てやり」
「……うん」

少し照れが滲んだ声色。
着信音だけで相手が分かってしまったことが、恥ずかしいのかもしれない。
つい、苦笑が零れた。
あのメロディーの時だけ一変する様子を毎度見ていれば、その気がなくても分かってしまうものだ。

娘が襖の奥へと姿を消すと、静寂を取り戻した辺りには秋虫の囁きだけが満ちる。
キレイな満月に、美味い酒。そして、きっと幸せに違いない娘の未来。

―――ええ夜やな。

極上の秋の夜長を祝って。
しんしんと照らす美月にそっとグラスを掲げ、最後の一口に酔いしれた。

 


白詰草がリボンに変わったお話『つぐない

2 thoughts on “月にさかずき

  1. 嫁入り前の父の複雑な心境は
    他の家よりずっと長く知ってる相手だから
    こそ、より複雑だっただろーなー
    銀司郎さん、と思ってしまいます
    白詰草の指輪をリボンに変えた平ちゃんも
    可愛い💕

    1. yo-koさん、コメントありがとうございます。
      ほんと、そう思います~!
      31巻でもお前んとこの悪ガキと~なんていいつつも、はっきり「冗談」て言っちゃってますしね(笑) 嫁にやるならアイツしかいないと思いつつも、複雑な父親心です。
      平次は無自覚にやってますが、お家に帰ってきた和葉ちゃんの指輪がリボンになっていることに気づいた銀司郎さんの心中、察するにあまりあります( ;∀;)
      コメントありがとうございました💕

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