「……し、ん、い、ち」
一面の深い緑の片隅で、白いラインが軽やかに伸びてゆく。「ら、ん……と。」
カツン、と音を立てて役目を終えたチョーク。
それを手にしたまま。
アタシは祈りを込めて、目の前の落書きを見つめた。
***
昨日の夜、久しぶりに耳にした声。
まだまだ、知り合ってまもないといっても過言やないほどやけど。
やさしくて、おおらかで、あったかくて。それでいてまっすぐ。
アタシにとっては、すでに大切な人。
そんな彼女からの電話。
会えへん間に積もったお互いの近況を話しつつ、アタシは気づいてしもた。
不自然なほどに、出てけぇへん名前。
いつもなら、会話の端々で彼女が口にする、彼女の幼馴染で、ほんで……最愛の人。
―――連絡、ないんや。
そう思い当たった途端。
手にした携帯を、無意識に強く握りしめとった。
小さな頃からずっと傍におった人。そして、一番傍におって欲しい人。
そんな人が急に自分の前から姿を消して。
顔を見るどころか、声を聴くことすらままならなくなって、蘭ちゃんは今、どんな気持ちなんやろう。
少しでも力になりたくて、自分に置き換えて考えようとするけど、あんまりうまくいかへん。
少し前なら、蘭ちゃんにこんな思いをさせる男を、心の中で罵ってやることも出来た。
でも、今はもう。それも出来へん。
アタシの中で工藤新一は、クドウやったり、シンイチやったり。
平次や蘭ちゃんのフィルター越しに、想像することしか出来へん、実体のない男やった。
だからこそ、憎らしく思うことも出来た。
せやけど、学園祭で初めてその姿を目にして、自分の怒りはお門違いやて気ぃついた。
―――工藤君は、蘭ちゃんのこと、ほんまに好きなんや。
彼の眼差しから、そのことがすごく伝わってきて。
ほんで、そんな彼を見る蘭ちゃんにもそんな想いが溢れとって。
どんな事情があるのかはよう分からへんけど、アタシが口出しするようなことやないんや、て思った。
それでも昨夜のように。
ふとした瞬間に、蘭ちゃんの寂しさを感じ取ったとき。
何とかしてあげたい、て思ってしまう。
寂しい、と蘭ちゃんが言わへん以上、部外者のアタシに出来ることなんて何もないんやけど。
結局、蘭ちゃんを少しでも笑わせられるような話をするんが精一杯やった。
「……あ。雨や」
窓に目を向けると、朝とは見違えるほど暗なった空から、多くの雨粒が打ち付けられとった。
「えー傘持ってきてへんのに……」
思わず口から文句が零れる。持ったままやったチョークを箱に戻して、窓へと駆け寄った。
どんよりとした雲はどこまでも続いとって、雨は当分止みそうにない。
「……サイアク」
こんなとき、つい思い浮かべてしまうのは、幼馴染の顔。
妙に、野生の勘みたいなもんが働くアイツなら。
天気予報が外れたこんな日でも、きっと傘を持ってるはず。
そこまで考えたところで、溜め息が出た。
ブルッブルッブルッブルッブルッ
「……!!」
アタシしかいない教室に響いた振動。
で、電話!?
すぐにその正体に思い当たって、慌てて鞄の中をまさぐる。手にした携帯に表示された名前は、昨夜とおんなじ。
「もしもし? 蘭ちゃん?」
“あ、和葉ちゃん! ごめんね、まだ学校だった?”
「うん。せやけど他に誰もおらんから大丈夫やよ。どうかしたん?」
二日続けて電話なんて珍しい。
何かあったんやろか。
“あのね……さっき、新一から電話あったの”
「えっホンマ!?」
“うん……”
自然と頬がゆるんだ。
電話の向こうにいる蘭ちゃんも、きっとあのやわらかな笑みを浮かべてるはずや。
やって、声に嬉しさが滲み出てるもん。
よかった―――
“……最近新一から連絡なくてね、本当はちょっと元気なかったの”
「うん……」
“あ、やっぱりばれてた? ごめんね、心配かけて。だからね、学校かもしれないって思ったんだけど、急いで電話しちゃった”
ごめんね、と。
耳に届けられる心地いい声。電話やから見えるわけないのに、つい首を左右に振る。
「ううん! ありがとう。アタシに知らせよう、て思ってくれて……嬉しい」
“お礼を言うのはわたしだよ。昨日和葉ちゃんと話せて、元気もらったもん。本当にありがとう”
「蘭ちゃん……」
それから少し、工藤君のことと今度いつ会えるかを話して、電話を切った。
携帯を握りしめたまま、降りつける雨を見つめる。心なしか、さっきより空が明るくなった気がした。
……キモチの問題なんかな。
視線を、窓の外から目の前の黒板へと滑らせる。
片隅に走る、傘を模った白いライン。
そのてっぺんには、祈りを込めたハートがくっついて。
傘の柄の部分を挟んで並んだ、「しんいち」と「らん」の文字。
「結構効くやん、これ」
―――描いて早々、工藤君から連絡あるやなんて。
頭の端っこでは、別にこれのおかげやないことくらい分かってるけど。
何だかすごく嬉しくて、ついつい頬がゆるんでまう。
でも次の瞬間には、幼馴染の顔が思い出されてしゅるりと喜びが萎えた。
再び、チョークを手に取って。
工藤君と蘭ちゃんの相合傘の斜め下に、控えめに白いラインをのばしていく。
今度祈るのは、恋愛成就やない。まだ、そんなレベルでもない。
お願い。
どうか、仲直り出来ますように―――
「何やっとんねん」
突然響いた声に、バランスを失ったチョークがぽきんと折れた。
「お前なぁ。黒板きれいにするんが仕事やろ。自分で汚してどないすんねん」
呆れたようにそう言って。
ズカズカと近づいてくる、正直、一番見られたなかった人物。
あ、アカン!!
慌てて黒板消しに手をのばす。
でも一足早く、褐色の手がそれを掠め取った。
「か、返してや! 消されへんやん!!」
「お前に任しとったらいつまでたっても終わらんわ。……うわ、何やねんコレ。相合傘て。小学生レベルやな」
スルスルと黒板消しが黒板を這う。
それを横目で見ながら、アタシはただただ冷や汗を浮かべた。
ど、どないしよぉ……
「よし、消せたで。ほら、帰んぞ」
「う、うん……」
今、アタシの背中には、二つ目の相合傘が隠されてる。
黒板に張り付くアタシを訝しげに見る平次に、軽いパニックに陥ったまま、表面上は精一杯の笑顔を浮かべた。
「あ、アタシ、まだ日誌書いてへんから、先帰ってええよ」
無言のまま、見下ろしてくる平次。
その瞳が、犯人の嘘を見破った探偵の色になっとった。かずはって。
呼ばれた声が低くて硬い。
「ちょおのいてみ」
「……い、いやや」
「のけ」
「いやや」
「……和葉」
「いややって」
お、お願いやから、今日だけは見逃してやぁ!
そんなアタシの祈りも空しく。
隠された真実っちゅうもんが大好物な平次が、アタシの肩を掴んだ。必死に足を踏ん張るけど、所詮力が敵うわけもなくて。アタシと黒板は、あっさりと引き離されてしもた。
「……何やこれ」
平次の反応が怖くて目を瞑る。
どないしよう。
見られた……アタシのキモチ、知られてしもた―――
「……全然読めへんやんけ」
―――へ?
目を開けて平次を窺う。
その拍子抜けした様子に、黒板へと視線を走らせると、そこには薄く散らばった白い跡。
よぉく見たら相合傘やってことは分かるけど、書き込まれた名前なんて全然読まれへん。
な、何で!?
「和葉。ちょお後ろ向いてみ」
そう言った平次にくるりと回されて、アタシの背中は平次の視線に晒される。
うわ、と背後から声が上がった。
「めっちゃ汚れてるやんけ! お前、ホンマのあほやな」
パタパタと、平次の手がアタシの背中をはたく。
―――そっか。アタシの制服について、分からんようになったんや。
そう思い当たるのと同時に、はふ、と力が抜けた。
……よかったぁ。バレんかったんや。
「ほな帰んで」
ぶつぶつと小言を並べつつ、チョークの粉を払い落としてくれた平次は鞄を手に取った。
さっさと教室を出て行くその背中を、慌てて追いかける。
「へ、平次!」
平次の足が止まった。
スニーカーに目線を合わせたまま、鞄を握る手にぎゅっと力をこめる。
「朝……のことやけど……ごめん」
やっと言えた。
この一言が言えなくて、台無しになった半日。
おそるおそる顔を上げると、いつのまにか振り返っとった平次と目が合う。
「何や。もう和葉ちゃんのご機嫌は直ったんか?」
うっ……
「別に気にしとらんわ。お前の八つ当たりなんて今更やしな」
にやりと、平次が笑う。
そのちょっと子供扱いした感じに、つい文句をつけたくなるけど。
せっかく言えたごめんを台無しにしたくなくて口を噤んだ。
「……あの二人なら、大丈夫や。心配すんな」
ハッと視線を上げると、すでに平次は背中を向けて歩き出しとった。
―――平次は、何でもお見通しやね。
蘭ちゃんのために、何も出来へん自分にイライラしてたこと。
そのせいで、いつもならたわいもない言い合いで済むはずのものが、本気のケンカになって。
平次にイライラ、ぶつけてしもたこと。
平次は全部、分かってる。
「あーまだ雨降ってる……」
昇降口に着くと、相変わらずの空に目をやってから、ちらりと隣の平次を窺った。
鞄から出てきたその手に握られたのは、期待どおりの折り畳み傘。
……アタシも、結構お見通し?
「なにわろてんねん」
「べつにー」
―――落書きより、こっちの方が効き目あるかも。
そんなことを思いつつ。
傘の柄越しに、大好きなその横顔を見つめた。