10. 愛する人の全て

『服部平次絶体絶命』の夜/一時的に文章でアップ

小さく木の板が立てた音に、取っ手を回そうとしていた手が止まる。
職業柄―――というのは正確にはふさわしくないが、平次の脳裏に真っ先に浮かんだ「強盗」という言葉は、きしみに続いて聞こえた耳慣れた声に、あっさりと打ち消された。
近づくにつれ、暗闇の中にその姿が浮かび上がってくる。

「……何しとんねん」
「平次こそ……まだ起きとったん?」

まさか、テルテル坊主を隠すためにみんなが寝静まるのを待っていました、なんて。
そんなことを堂々と口に出来るわけもないから、「便所や。今目ぇ覚めてん」とうそをついた。
握ったままのドアノブをガチャガチャと回してみせると、和葉は合点のいったような顔になる。

「お前もか?」

先ええで、と顎をしゃくった平次に、「のど渇いて目ぇ覚めただけ」と首を振って、和葉は平次の横をすり抜けて行く。何となく、そのままその姿を視線で追った。
こうして薄闇の中に浮かぶ和葉の丸みを帯びた肩を背後から眺めていると、昼間の事が頭に甦る。
背中合わせに囚われてしまっていたために、精一杯首を回しても、視界に入るのはその肩と結い上げた髪だけだった。それでも、触れ合った背中から確かな震えは伝わっていたし、いよいよ撃たれるかというときに名前を呼ばれた悲鳴まじりの声は、未だ耳に残っている。

眠られへんのか―――

そう訊きかけて、平次は口を噤んだ。
助け出されて以降、ずっと和葉は元気そうにしていたし、犯人たちへの文句は口にしていたものの、それほどショックを受けている様子もなかった。一人きりで眠るのならまだしも、今夜に限っては蘭と一緒なのだから、昼間の事を思い出して眠れないということは、おそらくないだろう。
頭の中ではそう考えつつも、平次は和葉の後姿から目を離すことが出来なかった。
名前を呼ばれて、和葉がこちらを振り返る。

「なに、平次?」

親が警察官であることに加え、やたら事件をひきつけるという、あまり有難くない性質を持つ幼馴染と行動を共にしている和葉にとって、普通の人間ならば滅多に遭遇しないような危険に晒された経験は少なくはない。けれど、そういった時に植え付けられる不安や恐怖。それらに慣れることなんて、そうそう出来ることではないのだ。
まして、この幼馴染といったら、暗闇や幽霊ですら苦手で―――

「オレも付き合うわ。のど渇いとったん思い出した」

気付くと、そう口にしていた。
一瞬不思議そうな顔をしたあとで、「うん」と和葉は小さく頷く。 

ふと、隣でグラスを傾ける和葉を見やると、その手首の擦れたような赤い痕が目についた。
はっとする。と同時に、同じような痕が残っているはずの自分の手首が、思い出したようにしくしくと痛み出す。
平次の視線に気付いた和葉が、窺うような仕草をした。何でもないというように首を振って見せてから、それ以上の追求を妨げるためにグラスに口をつける。

―――まだまだやな。

もしも、犯人たちが和葉にも危害を加えていたら。
もしも、工藤新一からのメールがあと1秒でも遅れていたら。
結局はこうして無事でいるが、今回だって一歩間違えばどうなっていたか分からなかった。そして残念なことに、次回がないという保証はどこにもない。
探偵として生きる平次にとって、ああいった危険は他の人間よりもずっと近い場所にあって。
それは、和葉にもいえる。けれど、守りたい。絶対に傷つけたくない。

―――この女は絶対、死なせたらアカンねん。

右手の甲の傷とともに刻み付けた誓いを再び噛み締めて。
少しだけ温くなったグラスの水を、平次は一気に飲み干した。

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