会いたいとか、声が聴きたいとか。
そんなことを考える余地がないほど、ずっと一緒だったあの頃。
鳴らない携帯を握りしめて。
アタシは今日も、知らず幸福だったあの頃に、記憶の中の声に。
想いを馳せながら眠りにつく。
あの頃とはもう違うんだ
窓から差し込む日差しが眩しくて、ちょっと気を抜くとうとうとしてしまいそうなアタシの頭を刺激する。世界経済の情勢について熱弁をふるっている教授と目が合って、出かけていたあくびを飲み込んだ。先生には申し訳ないけれど、お昼ごはん直後のアタシには、90分の経済話は少し、ツライ。
なんて思っていると、ブルブルと携帯がふるえる音。
つい、机の端に置いている自分の携帯に目をやってしまう。
「あ、今日のコンパ、18時からやって」
メール着信の画面に切り替わらへん携帯を睨んでいると、隣からそんな声がした。「和葉ちゃんも、行くやろ?」
視線は前をとらえたまま、器用に机下で携帯を操作しとる。その爪にきれいに塗られたマニキュアのラメが、きらきらと反射した。
そういえば、そろそろ塗りなおそかな。
伸びてきた自分の爪を見ながら、そんなことを考える。
「大丈夫、今日は大野君来ぇへんみたいよ」
次に塗るマニキュアの色に考えを巡らせとったアタシの無言を、参加への迷いと受け取ったらしい彼女が、こちらを向く。
「たとえ来たとしても、ほんまに嫌なら和葉ちゃんの近くには座らせへんし……」
「あ、ちゃうちゃう、ちょっと考え事しとっただけ。この間のことも別に気にしてへんし」
笑って手を左右に振って見せると、「ほんまに?」と、ちょっと心配げな顔をする。
「瑞穂ちゃんこそ、クラスの飲み会ばっかり行ってて大丈夫なん? 彼氏さん、嫌がらへんの?」
「ぜーんぜん平気。仕事で手一杯でろくに連絡すらないもん」
「え、そうなん?」
そうなんよ~、と笑う。まだ知り合って1カ月にも満たない彼女のその笑顔が、強がりなのか、それともほんまのものなのか、アタシにははっきりとは分からへん。
ここは、もうちょっとつっこんで聞いてもええところなんやろか。
距離感がつかめず逡巡しとったアタシに、「和葉ちゃん、次、講義入ってるんやったっけ?」と彼女が言う。
「ううん、休講やから空いとる。5限に1コあるけど」
「ほんま? やったら、ちょっとお茶せぇへん? ウチ、今日はこの講義で終わりやねん」
「ええねぇ! しよしよ」
そうと決まれば俄然、講義に身が入らなくなってまう。早く終わらへんかなぁ、と時計と睨めっこしていると、アタシの思いが通じたのか「ほな、今日はここまで。来週は――」と、先生が黒板を消し始める。
ついているなぁ、と目配せし合って、アタシたちは早々と教室をあとにした。
*
ふわりと吹いた風が、肩に流した髪をさらっていく。まだこの感覚には慣れてへん。顔にまとわりついた分が鬱陶しくて、全部ひとまとめにして括ってしまいたくなる。あの頃みたいに。
乱れた髪を手櫛で梳いて、耳にかけてやる。と思ったらまた風が吹いてやり直し。
もう、ええ加減にしてや。
思わず口をついて出た風に対しての文句に、すかさず飛んでくるはずの隣からのツッコミは、ない。
―― あほやなぁ、風に文句言ってどうすんねん。
声も口調も、表情さえも、すべてが鮮明に想像できるのに。
「まだ、1カ月も経ってへんのになぁ」
こんなんで、アタシは大丈夫やろか。
待っても待っても着信を告げてくれへん携帯に向かって、溜息をひとつこぼす。
この間メールしたのはいつだったっけ、と、送信ボックスを開いてみると、一番上のメールの日付が3日前やった。
『GW、どうするん?』
たった9文字のこのメールを打つために、アタシが一体何日かけて、何回打ち直ししたか。アイツには絶対分からへん。
1日経ってようやく返ってきたメールは、たったの二文字。『依頼』―― ただ、それだけ。
分かっとった。まめに連絡を寄越すような男やないし、まして、ただの幼馴染にまめであろうと努力する必要もない。
どこで、とか。どんな依頼なん、とか。
聞きたいことや言いたいことはたくさんあるけれど、送ったところで鬱陶しがられるだけやから、アタシだってメールは最小限に留めてる。電話なんてもっての外。
すぐ傍にいたあの頃やったら、こんなめんどくさい機械に頼る必要もなく、聞きたいことも言いたいことも、全部、面と向かって伝えることができたのに。
声だって、なんの苦労もなく聞くことができたのに。
ほんのちょっとだけ。心の片隅にあった期待は見事に泡のように消えて、一体いつになったら会えるだろうと、アタシはまた溜息をついた。
「ごめん、待たせてしもて!」
3日ぶりのメールを送信して顔を上げると、瑞穂ちゃんが息を切らして立っとった。「ううん、もうよかったん?」
うん、と頷く瑞穂ちゃんの頬っぺたが、ほんのりと紅い。声も、心なしか弾んでる。
―― やっぱり、ほんまは連絡なくて寂しかったんやな。
突然かかってきた彼氏からの電話の内容を、ぽつりぽつりと話す彼女の横顔を見ながら、そんなことを思う。
校内にあるカフェに入ると、それぞれに注文を済ませ、丸いテーブルに腰を下ろした。
「彼氏さん、社会人1年目なんやろ? まだ入社したてやもんなぁ。やっぱり大変なんやね」
「……うん。連絡少ないのも仕方ないって、わかってたんやけど。……って、」
ちゃうねん! と、照れているのか下を向いて話しとった彼女が、急にこちらを向く。「ウチの話はどうでもええの! 今日こそは、和葉ちゃんにほんまのこと話してもらうねんから!」
真剣な顔で詰め寄ってくる瑞穂ちゃん。わけが分からへん。アタシ? ほんまのこと?
「あ、アタシ、ウソなんてついてへんけど……」
「和葉ちゃん、ほんまは彼氏おるやろ?」
犯人を追いつめる誰かさん顔負けの鋭い視線で、瑞穂ちゃんはそんなことを言い出した。
慌てて否定しようとするアタシを遮って、
「しかも、遠距離や」
そう言い放った彼女は、満足げにカフェオレに口をつける。遠距離、という言葉に、ちくりと胸が痛んだ。
「いてへんって、ほんまに! いたことすらないし」
「うそやん! 絶対おる!」
そもそも、和葉ちゃんみたいな子が彼氏いたことないなんて、ありえへん。
よく、携帯の着信を気にしとるし。さっきも溜息ついとったし。
この間のコンパの時だって、あんなイケメンにくどかれとったのに全くなびいてへんかったし。
それから、それから、
推理の根拠を並べ立てる瑞穂ちゃん。どうしたら、彼女の誤解を解くことができるやろうと、ぐるぐると考える。
服部平次という存在を、どんな風に説明したええのか、よう分からへん。
ただの幼馴染で、アタシはお姉さん役みたいなもんやねん。
ただそれだけ。アタシたちは、それ以上でも、それ以下でもない。
当たり前のように平次が隣におったあの頃なら、簡単に口にできたその言葉も、今はもう、口にするのを躊躇ってしまう。
ほんまに、ただの幼馴染で終わってしまう気がして。このままやったら、間違いなくそうなってしまうから。
こうしてアタシに新しい友達ができたように、きっと平次も、東京でアタシの知らないヒトと、友達になって。
どんどんアタシの知らない平次が増えてって、平次の世界が広がっていって。
平次の中に占めるアタシの存在なんて、ちっぽけなものになってしまうんかな。
アタシのこの気持ちだって。小さくなって、消えていって。
いつか、違う誰かの隣りで、淡い初恋として思い返すようになるんやろか ――
今はまだ、そんな未来は全然見えない。
でも、あの頃は思いもつかなかったそんな未来に、気付いてしまったことが哀しかった。